関ヶ原合戦419年を迎えて
皆さんこんにちは。
島津久崇です。
9月15日は関ヶ原合戦の日でした。
8/26公開「関ヶ原」予告編(ロングバージョン) - YouTube
皆さんも、歴史で覚えたのではないでしょうか。
約7万4千人vs約8万2千人
天下分け目の関ヶ原、と呼ばれるだけあって壮絶な戦いが繰り広げられましたが、
勝敗は1日で着いたともあり、日本を二分しながら事前準備の差で西軍が負けた、という結果に終わりました。
関ヶ原とは、一体なんの為の戦争だったのでしょうか。
豊臣秀吉が亡くなり、均衡を保っていた政治的バランスは崩れました。
その元となった内容は、朝鮮出兵にあったようです。
現場に行った者と行かない者、軋轢はここから加速したようです。
現場に出るか出ないか、これによる反乱は今の企業でもありうる話ですね。
【関ヶ原における島津家】
さて、この戦争において私の先祖は何をしていたのか。
この戦争に参加したのは、島津義弘公。
西軍に組し、最後は敵中突破の上帰国しています。
なぜ彼は西軍で参戦したのでしょうか。
【西軍で参戦するつもりはなかった】
会津征伐を計画していた家康の目論見によるものですね。
いざ伏見城に行ってみると、伏見城留守居をしていた鳥居元忠に入場を拒否されてしまいます。
なぜこんなことに??
それは、兄義久の不動の決断による者でした。
【祖父島津日新斎忠良が見た島津4兄弟】
話は遡り、島津日新斎忠良の話をします。
島津忠良は、日新公いろは歌の創作者として広く知られています。
このいろは歌は、桂庵禅師から儒学の基本を学び、論語・禅・神道を極め、それを日々の道徳に落とし込んだものです。
のちに「日学」と呼ばれ、この教えを普及させていきます。
これが、薩摩の武士道「士風」と呼ばれるものに昇華されていきます。
この教育が後に、西郷隆盛や大久保利通、東郷平八郎や大山巌、他様々な偉人を輩出する文化へと醸成されていきました。
さて、そんな日新斎が島津四兄弟に対して以下のように評したと伝えられています。
島津義久:三州の総大将たるもの、材特自ら備わる
島津義弘:雄武英略を以て他に傑出
島津歳久:始終の利害を察するの智計並びない
島津家久:軍法戦術に妙を得たり
その義久が、対局を見てこの戦に参戦すべきでないと判断したことが、義弘が伏見城へ入れない原因になりました。
【なぜ義久は関ヶ原へ積極的に参戦しようとしなかったのか】
この答えは、内乱と朝鮮出兵により国が疲弊していたからです。
1597~98年の話です。
翌年は、庄内の乱という内乱が起こり対処に追われます。
当然、薩摩藩内は疲弊しきっています。
そこに関ヶ原。正直兵を出す余裕はありませんでした。
また、中央に関わりたくない義久からすれば、関わりたくもない状況だった事が想像されます。
【そして西軍に参戦】
鳥居元忠に追い返された義弘は、人質を取られていた事もあり西軍に与します。
しかし、島津軍は開戦後も不動の立場を取っていました。
その理由は、夜襲の申し出を無下にされた事にありました。
東軍は着いたばかりで疲弊しきっている。
ここで攻めれば勝てる、という算段での申し出でした。
しかし、三成はその申し出を却下します。
奇襲作戦について、邪道と考えていたから、という話も残っています。
奇襲は立派な戦略。これで戦火を最小に抑えられるなら逆に良かったとも思います。
【馬上からの命令が終わりの始まり】
さて、関ヶ原の火蓋は切って落とされましたが、半数以上の西軍が様子見して動かない状況でした。
人数は西軍が勝り、数で勝てると考える三成。
動いていない武将に攻めるよう要請を出します。
島津義弘のところにも現れましたが、馬上から物申し無礼千万だった為、追い返します。
(生麦事件のように斬り捨てられなくて良かったですね)
これを受け、三成自身が要請に来ますが、これも追い返します。
結局、数の利を活かせず西軍は敗退します。
最後は敵中突破して大阪経由で鹿児島へ帰ってくるわけですが、
さまざまな政治的思惑の交錯した関ヶ原。
最終的には島津家は本領安堵する事で決着し、島津家は今なお残る家になりました。
政治戦争は今の世の中でも起こる事案。
日産とか、大塚家具とか、ありましたよね。
あれは内乱でしたが、政治戦争という括りでは同じような者です。
こういった有事に対処できる平時の凡人を見抜けるかどうか、がリーダーの手腕に掛かってきます。
という事で、今日は関ヶ原合戦をテーマにお送りしました。