鹿児島西洋医学の幕開け
こんにちは。島津久崇です。
今日は、鹿児島西洋医学の幕開けという事でウィリアム・ウィリスを取り上げたいと思います。
ウィリアム・ウィリスは、1837年北アイルランド生まれ。
彼は、駐日英国大使館外交官・医官として来日しました。
生麦事件という歴史トピックを皆さんご存知ですか?
島津久光の大名行列を、馬に乗ったまま行き違おうとしたイギリス公使リチャードソンを、薩摩藩士が斬り捨てた事件です。
この時の検死を担当したのが、ウィリアム・ウィリスです。
その後、鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩大山巌の要請により、野戦病院にて治療を行うなどの活躍を見せました。
この頃、アーネスト・サトウと共に最後の薩摩藩主島津忠義と謁見した事も記録されています。
※アーネスト・サトウはこちら
明治維新後、ウィリアム・ウィリスは東京大学医学部の全身である東京医学校兼病院の創始者として日本の医療の発展に着手し始めます。
しかし、ここで岩佐純・相良知安らの提言を受け入れた方針転換が発表されます。
それは、大日本帝国の医学は「ドイツ医学を参考にする」という事です。
これにより、ウィリアム・ウィリスは職を終われます。
日本の発展の為に決意したウィリアム・ウィリスの気持ちがどれだけ萎えた事か、想像に難くありません。
<ウィリアム・ウィリス、鹿児島へ>
皆さんは、鹿児島大学に医学部があるのはご存知でしょうか。
元々は1869年に島津藩医学校からスタートしています。
当時、薩摩藩でも鹿児島医学校の創設を進めていました。
ウィリアム・ウィリスが職を終われた事を知った西郷隆盛は、石神良策と共に鹿児島医学校の教育に携わるようお願いします。
これを受け、彼は鹿児島へ行き、医学教育を行い始めます。
この時、彼は32歳でした。
開始から4年後、イギリスに戻りましたが翌年に再来日。
2年程さらに従事しておりましたが、西南戦争の勃発により外国人引き上げの達しが降ります。
これを最後に、彼は鹿児島に変えることは二度とありませんでした。
幕末という動乱の中、壮絶な人生を送ったウィリアム・ウィリス。
ベッドサイドティーチングを行うなど、常に現場志向だったと伺っております。
まさに郷中教育の鹿児島において、理想の勉学方だったのではないかと思います。
(今の日本の医学教育は逆行しているように思いますね)
また、教育者としての功績で言えば高木兼寛(後の海軍軍医総監・東京慈恵会医科大学創設者、ビタミンの父)を育てたことですね。
詳しくはこちら。
こんな素晴らしい人物ですが、あまり知られておりません。
ぜひ、医学部に所縁のある方は彼について調べてみてください。
では、今回はこれまで。