歴史と文化は何が違うのか
歴史と文化は何が違うのか。
自分の言葉で説明するのはとても難しかったです。
私は以前、G1COLLEGEであるアラートを投げました。
上記記事中にも投げています。
【文化が継承されなくなっている】
これが今回のテーマの一つです。
私は18歳の年末、神社で行われた忘年会で参加者よりある問いを投げられました。
「おはんの役割は、なんよ」
私は、次のように答えました。
「文化を受け継ぐことです」
そう答えたとき、次に問われたのは
「文化とは、なんよ」
でした。
18歳の私は答えられませんでした。
皆さんだったら、どう答えますか?
続けて、このように言われました。
「まずは、こん答えを言えるようになってきなさい」
【神主の研修で出会う文化】
私は大学1年生から2年生に上がる春休み、神職の資格「直階」の資格を取るべく神職養成講習会に参加しました。
そこで教わるのは、神前作法や古事記・日本書紀、日本史などです。
中学・高校とすっかり勉強とは無縁の生活をしていた私は、ここでの再発見がとても多かったです。
その中でも、間違いなく日本文化の1つである神前作法は、新たな「文化」との出会いでした。
皆さんが神主さんを目にする機会があると思います。
おおよそ、江戸時代や現代の恰好ではありませんよね。
神主の世界には「有職故実」というものが残っています。
ここに、どのような服装をすべきか記載されています。
この有職故実は、時代を経るごとに少しずつ変化しています。
極端な例は烏帽子でしょうか。
陰陽師の頃の烏帽子と、我々が現在被る烏帽子は、高さが全く違います。
歴史を経るごとに変わる有職故実、とても興味深かったです。
【ジャズで見る文化の変遷】
これは完全に私の趣味であるジャズの話です。
私は大学時代から、ジャズ研究部に勤しんでいました。
入部した当初、私が先輩方からこれを聞け!と勧められたのは次のような演奏でした。
所謂4ビートのビ・バップですね。
この演奏を起点にしたとき、少し前の演奏と、現代の演奏は全く違います。
最近のジャズはこのような形になっていたりしますね。
あくまでも、現代のジャズの1つであり、ジャズの中でもこのようにいろいろなジャンルが生まれています。
歴史を経るごとに変わるジャズ、とても興味深かったです。
【失われていく一節切】
皆さんは「一節切(ひとよぎり)」という楽器をご存じでしょうか。
実は偶然、ご縁で手にすることになりました。
先祖である島津義弘も嗜んでいたとか。
これに関しては、いまだ自分で出した音と、CDに記録されている音しか知らないのですが、失われている文化に触れることになりました。
【地元の人からも忘れ去られた天吹】
鹿児島に「天吹(てんぷく)」という笛が伝わっています。
明治維新の頃までは盛んに吹かれていたようですが、明治末から、学生の成績が悪いのはこの天吹と琵琶が理由だ、ということで禁止されます。
ここから、天吹文化の衰退が進み、昭和期には伝承曲7曲演奏出来る奏者は1名になるなど、滅亡危機にさらされていたと言います。
【1192年鎌倉幕府は1185年説に切り替わっている?】
我々が学生の頃、やはり1192年鎌倉幕府成立で記憶させられました。
しかし、最近は違うようですね。
しかし、源頼朝が1192年征夷大将軍に任じられたことは年号共に変わらず歴史に刻まれています。
【歴史と文化の違いは何なのか】
最初の疑問に戻ります。
私は歴史と文化は以下のように考えています。
歴史=後世に語り継がれるもの
文化=後世により洗練され時代に引き継がれるもの
後の時代に「継がれる」共通点がありながら、不変と洗練の違いがあります。
似て非なる、2つの言葉。
これらが導き出すのは
【歴史を学ぶことは文化を引き継ぐ】ことに繋がるでしょう。
今回のコロナウィルスは、先人から我々に対し、歴史と文化を引き継げていない事を突き付けられています。
改めて、歴史と文化に注視する時代が来たように思います。
本日はここまで。
薩摩の食で世界を目指す
先日、後輩から就活相談を受けた。
企業選びに困っているようだ。
私自身、とても悩んだ記憶がある。
私は就活時代、神主であることを隠さずに活動していた。
神主として年末年始や、当時は島津義弘公没後400年祭なども控えていたので身動きの取れやすさはとても大事な要素だった。
大学3年の頃からインターンを受け始め、様々な企業をまわった。
恩師から、営業を経験したほうが良いのではないかというススメもあり、営業職で探した。
また、独自に神社を今後盛り立てなければならないと考えていたことから広告・PR業界も見た。
結果的には、高校時代に同級生をある大企業にテレアポして入社ルートを作った経験から人材業に入った。
ここに入って、社会人としての基礎力をかなり叩き込まれた。
事業部長の隣に座らされ、高頻度で詰められたが、そのおかげで思考して仕事をするようになった。
歯ぎしりするようになるくらい精神的には負担があったが、これは今にも活きる能力であり、当時の上司や事業部長にはとても感謝している。
しかし、この仕事を人生を賭して続けたいとは思えなかった。
修業場としては良かったのだが、それ以上は無かったのだ。
そこから考えるようになる。
「自分が人生を賭して遺したいものは何なのか」
「何をして死ぬか」
究極的に仕事を探す問いは、これではないか、と最近は考えている。
私の場合、究極的な使命は加治木島津家を次に繋げることだ。
では、島津久崇としてやり遂げたいことは何なのか。
私が最近考えているのは鹿児島尽くしのフルコースを遺したいと考えている。
鹿児島には有名な福山酢がある。
実は出来てここ200年ほどのものだ。
焼酎も味が変わってきている。
洋食にもあうような焼酎が出てきているのだ。
また、先日の記事で紹介した通りお茶・紅茶もある。
これを組んでいくコースを組んでみたいと思っている。
島津久崇の考える、鹿児島の食を堪能できるコースだ。
最近は鹿児島へ帰って、食事をする時いつも考える。
切子はワインや焼酎のソーダ割を提供する、盛り付けは肉料理なら白薩摩が映えるだろうか、などだ。
重豪公や斉彬公も同じことを考えていたかもしれない。
鹿児島の食は、一つの鹿児島ブランドになりうる。
それは、多くの農家のたゆまぬ努力と、継承を受けているからだ。
それを最大限発信できていないのがずっと悔やまれる。
鹿児島黒牛は全国和牛能力共進会において日本一を取っている。
しかしながら、バイヤーへの認知はそこまで高くなく、消費者に至ってはまったく認知されていない。
そういった状況を改善するためにも、コースを作る必要性を感じている。
独立ではなく、薩摩として世界をかける。
今も昔も目指すものは変わらないのだ。
こういったことを、考えながら生きている。
意外と知られていない鹿児島の「茶」
鹿児島は、食・焼酎や文化だけでなく、実は「茶」でも世界に打って出ている。
今日はその「茶」について紹介したい。
鹿児島はお茶が有名だ。
特に紅茶の「姫ふうき」に関しては、世界一位を取ったこともある枕崎の紅茶である。
それ以外にも、鹿児島のお茶については実は生産数もとても多い。
なぜ鹿児島はこんなにもお茶文化が発展しているのだろうか。
鹿児島の茶の歴史は古く、鎌倉時代にさかのぼる。
平家の落人が、日置で作り始めたことが起源とされている。
余談だが、実は、薩摩は平家所縁と思しき場所がいくつか存在する。
私の地元、加治木にも存在している。
茶の話に戻る。
戦国時代、島津4兄弟の祖父にあたる島津忠良(日新斎)が茶を奨励することから、薩摩における茶の普及が始まる。
関ヶ原の戦いで敵中突破を果たした義弘公もその1人だ。
千利休から通信教育なども受けていた。
(今の時代でようやく普及してきたリモート文化が薩摩の殿様においては当たり前に行われていた。
ミーハーな島津家らしいと思う。)
江戸時代以降、鹿児島の茶文化は発展を遂げる。
1626年、薩摩は茶道坊主というものを置く。
そこから、島津家分家の当主が積極的に茶園を開いていくこととなるのだ。
名残として、島津茶園という会社が都城にある。
ここは、現在でも都城島津家29代当主、久友氏が代表取締役として経営されている。
幕末に向けては紅茶の生産を始める。
1879年にはシドニー万国博覧会に出展し、そこから国際的に茶の輸出を始めている。
最近、仙厳園でもこの頃の製法を復活させた紅茶「武士の紅茶」を販売している。
リンク先にも書いてある通り、最近三浦春馬氏が主演で話題になった映画「天外者」五代友厚が制作したレシピを再現したものだ。
最近では、この薩摩の紅茶がイギリスで行われる食のオスカー「Great Taste Awards」において星を獲得するなど、素晴らしい評価を得られている。
2019年には鹿児島の緑茶でもこの星を獲得している。
鹿児島は現在、世界においてお茶の場面で存在感を発揮している。
なぜ薩摩は世界で影響力を発揮するようになったのだろうか。
それを知るために、次回は歴史を紐解いてみたい。
<参考サイト>
若手の芽吹き〜鹿児島発世界へ〜
コロナウィルスのゴタゴタで政府のロクでもない対応が世界から批判されていますが、そんな中若者の活躍が目立っています。
大人顔負け・・・高校生が広報戦略!?|NNNニュース https://t.co/5YioivKrjf
— 島津久崇~Hisataka Shimadzu~ (@HisatakaShimazu) 2020年2月13日
今朝の南日本新聞南風録です。
— 島津久崇~Hisataka Shimadzu~ (@HisatakaShimazu) 2020年2月14日
鹿児島修学館の後輩堂原菜央さんの高校生国際シンポジウムにおける発表について紹介されています。
素晴らしい活躍です。#鹿児島黒牛 #高校生国際シンポジウム #広報戦略 #ビジネスプランhttps://t.co/OGEezjuidA
鹿児島修学館の先輩、堀下昂平さんの記事です。
— 島津久崇~Hisataka Shimadzu~ (@HisatakaShimazu) 2020年2月15日
連日、修学館の先輩後輩が新聞に掲載されています。
「愛着わくお薬手帳」兄弟で作成 鹿児島市喜入薬局・堀下さん | 鹿児島のニュース | 南日本新聞 | 373る https://t.co/Lkn8bDUqHq
関ヶ原合戦419年を迎えて
皆さんこんにちは。
島津久崇です。
9月15日は関ヶ原合戦の日でした。
8/26公開「関ヶ原」予告編(ロングバージョン) - YouTube
皆さんも、歴史で覚えたのではないでしょうか。
約7万4千人vs約8万2千人
天下分け目の関ヶ原、と呼ばれるだけあって壮絶な戦いが繰り広げられましたが、
勝敗は1日で着いたともあり、日本を二分しながら事前準備の差で西軍が負けた、という結果に終わりました。
関ヶ原とは、一体なんの為の戦争だったのでしょうか。
豊臣秀吉が亡くなり、均衡を保っていた政治的バランスは崩れました。
その元となった内容は、朝鮮出兵にあったようです。
現場に行った者と行かない者、軋轢はここから加速したようです。
現場に出るか出ないか、これによる反乱は今の企業でもありうる話ですね。
【関ヶ原における島津家】
さて、この戦争において私の先祖は何をしていたのか。
この戦争に参加したのは、島津義弘公。
西軍に組し、最後は敵中突破の上帰国しています。
なぜ彼は西軍で参戦したのでしょうか。
【西軍で参戦するつもりはなかった】
会津征伐を計画していた家康の目論見によるものですね。
いざ伏見城に行ってみると、伏見城留守居をしていた鳥居元忠に入場を拒否されてしまいます。
なぜこんなことに??
それは、兄義久の不動の決断による者でした。
【祖父島津日新斎忠良が見た島津4兄弟】
話は遡り、島津日新斎忠良の話をします。
島津忠良は、日新公いろは歌の創作者として広く知られています。
このいろは歌は、桂庵禅師から儒学の基本を学び、論語・禅・神道を極め、それを日々の道徳に落とし込んだものです。
のちに「日学」と呼ばれ、この教えを普及させていきます。
これが、薩摩の武士道「士風」と呼ばれるものに昇華されていきます。
この教育が後に、西郷隆盛や大久保利通、東郷平八郎や大山巌、他様々な偉人を輩出する文化へと醸成されていきました。
さて、そんな日新斎が島津四兄弟に対して以下のように評したと伝えられています。
島津義久:三州の総大将たるもの、材特自ら備わる
島津義弘:雄武英略を以て他に傑出
島津歳久:始終の利害を察するの智計並びない
島津家久:軍法戦術に妙を得たり
その義久が、対局を見てこの戦に参戦すべきでないと判断したことが、義弘が伏見城へ入れない原因になりました。
【なぜ義久は関ヶ原へ積極的に参戦しようとしなかったのか】
この答えは、内乱と朝鮮出兵により国が疲弊していたからです。
1597~98年の話です。
翌年は、庄内の乱という内乱が起こり対処に追われます。
当然、薩摩藩内は疲弊しきっています。
そこに関ヶ原。正直兵を出す余裕はありませんでした。
また、中央に関わりたくない義久からすれば、関わりたくもない状況だった事が想像されます。
【そして西軍に参戦】
鳥居元忠に追い返された義弘は、人質を取られていた事もあり西軍に与します。
しかし、島津軍は開戦後も不動の立場を取っていました。
その理由は、夜襲の申し出を無下にされた事にありました。
東軍は着いたばかりで疲弊しきっている。
ここで攻めれば勝てる、という算段での申し出でした。
しかし、三成はその申し出を却下します。
奇襲作戦について、邪道と考えていたから、という話も残っています。
奇襲は立派な戦略。これで戦火を最小に抑えられるなら逆に良かったとも思います。
【馬上からの命令が終わりの始まり】
さて、関ヶ原の火蓋は切って落とされましたが、半数以上の西軍が様子見して動かない状況でした。
人数は西軍が勝り、数で勝てると考える三成。
動いていない武将に攻めるよう要請を出します。
島津義弘のところにも現れましたが、馬上から物申し無礼千万だった為、追い返します。
(生麦事件のように斬り捨てられなくて良かったですね)
これを受け、三成自身が要請に来ますが、これも追い返します。
結局、数の利を活かせず西軍は敗退します。
最後は敵中突破して大阪経由で鹿児島へ帰ってくるわけですが、
さまざまな政治的思惑の交錯した関ヶ原。
最終的には島津家は本領安堵する事で決着し、島津家は今なお残る家になりました。
政治戦争は今の世の中でも起こる事案。
日産とか、大塚家具とか、ありましたよね。
あれは内乱でしたが、政治戦争という括りでは同じような者です。
こういった有事に対処できる平時の凡人を見抜けるかどうか、がリーダーの手腕に掛かってきます。
という事で、今日は関ヶ原合戦をテーマにお送りしました。
今考えるべき、神社の役割〜神社とは、何をする場所?〜
こんにちは。島津久崇です。
皆さんの身の回りにある神社。
時代と共に役割が変わっていく事を、ひしひしと感じています。
何がこのような気持ちを生んでいるのか。
それを考えていきたいと思います。
【神社とは、何をする場所?】
皆さんは、神社へどのような時にお参りしますか?
初詣、会社の行事などが多いかもしれませんね。
小さい頃、神社で正座をしながら神主さんの祝詞を聞いていた記憶はありませんか??
神社とは、なにをする所なのでしょうか。
神社は、神様をお祀りしている所です。
「祀る」とは、どういう事なのでしょうか。
以下の国語辞典などを見ると、以下のように書かれています。
① 飲食物などを供えたりして儀式を行い、神を招き、慰めたり祈願したりする。 「神を-・る」 「船霊(ふなだま)を-・る」 「皇太后の御体不予したまふ、天神地祇を-・る/続紀 天平宝字四」
② 神としてあがめ、一定の場所に安置する。 「戦死者の霊を-・った神社」
③ あがめて上位にすえる。まつりあげる。 「隠居は城井の一間に-・られて/二人女房 紅葉」
[可能] まつれる
改めて読んでみて、如何でしょうか。
慰めたり、祈願したりする、という話が出ていますね。
では、お参りする目的は神様を慰めたり、祈願する事なのでしょうか。
同じ辞典のお参りをチェックしてみましょう。
① 神社・仏閣に参拝すること。 「伊勢-」 「お礼-」
② 「行くこと」の謙譲語。参上すること。 「年月の勘事(こうじ)なりとも、今日の-には許されなむ/蜻蛉 中」
③ 特に、宮中に行くこと。参内。 「此の頃は時々御宿直(とのい)とて-などしたまひつつ/源氏 宿木」
④ (食べ物などを)召し上がること。 「車とめて、湯-などし給ふ/源氏 手習」
参拝する事、と書いてありますね。
参拝する事、ってどういう事なのでしょうか。
もう少し掘り下げてみましょう。
神社に行って拝むこと。寺にもいう。 「明治神宮に-する」
拝む事、だそうです。
拝むとは何なのでしょう。
おが・む をがむ [2] 【拝む】
( 動マ五[四] )〔「をろがむ」の転か〕① 神仏など尊いものの前で、手を合わせたり礼をしたりして、敬意を表したり祈ったりする。 「仏像を-・む」 「お日様を-・む」 「祈禱師に-・んでもらう」
② 心から頼む。嘆願する。 「どうか、連れて行って下さい、-・みます」
③ 「見る」の謙譲語。㋐ (やや皮肉な言い方)貴重な物を見せていただく。拝見する。 「宝物を-・ませてやろう」 「一億円の札束なんて-・んだことがない」
㋑ 高貴な人の姿を見る。拝顔する。現代語では、相手によっては皮肉な言い方。 「皇帝陛下のお顔をじかに-・みたい」 「やつの女房の顔でも-・んでゆくか(=皮肉ナ言イ方)」 「かの室にまかり至りて-・みけるに/古今 雑下詞
尊いものの前で、手を合わせる場所だという事が分かりましたね。
神社とは、神様に手を合わせ、敬意を表す場所、ということになります。
果たして、この認識で良いのでしょうか。
次回に続く...
鹿児島西洋医学の幕開け
こんにちは。島津久崇です。
今日は、鹿児島西洋医学の幕開けという事でウィリアム・ウィリスを取り上げたいと思います。
ウィリアム・ウィリスは、1837年北アイルランド生まれ。
彼は、駐日英国大使館外交官・医官として来日しました。
生麦事件という歴史トピックを皆さんご存知ですか?
島津久光の大名行列を、馬に乗ったまま行き違おうとしたイギリス公使リチャードソンを、薩摩藩士が斬り捨てた事件です。
この時の検死を担当したのが、ウィリアム・ウィリスです。
その後、鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩大山巌の要請により、野戦病院にて治療を行うなどの活躍を見せました。
この頃、アーネスト・サトウと共に最後の薩摩藩主島津忠義と謁見した事も記録されています。
※アーネスト・サトウはこちら
明治維新後、ウィリアム・ウィリスは東京大学医学部の全身である東京医学校兼病院の創始者として日本の医療の発展に着手し始めます。
しかし、ここで岩佐純・相良知安らの提言を受け入れた方針転換が発表されます。
それは、大日本帝国の医学は「ドイツ医学を参考にする」という事です。
これにより、ウィリアム・ウィリスは職を終われます。
日本の発展の為に決意したウィリアム・ウィリスの気持ちがどれだけ萎えた事か、想像に難くありません。
<ウィリアム・ウィリス、鹿児島へ>
皆さんは、鹿児島大学に医学部があるのはご存知でしょうか。
元々は1869年に島津藩医学校からスタートしています。
当時、薩摩藩でも鹿児島医学校の創設を進めていました。
ウィリアム・ウィリスが職を終われた事を知った西郷隆盛は、石神良策と共に鹿児島医学校の教育に携わるようお願いします。
これを受け、彼は鹿児島へ行き、医学教育を行い始めます。
この時、彼は32歳でした。
開始から4年後、イギリスに戻りましたが翌年に再来日。
2年程さらに従事しておりましたが、西南戦争の勃発により外国人引き上げの達しが降ります。
これを最後に、彼は鹿児島に変えることは二度とありませんでした。
幕末という動乱の中、壮絶な人生を送ったウィリアム・ウィリス。
ベッドサイドティーチングを行うなど、常に現場志向だったと伺っております。
まさに郷中教育の鹿児島において、理想の勉学方だったのではないかと思います。
(今の日本の医学教育は逆行しているように思いますね)
また、教育者としての功績で言えば高木兼寛(後の海軍軍医総監・東京慈恵会医科大学創設者、ビタミンの父)を育てたことですね。
詳しくはこちら。
こんな素晴らしい人物ですが、あまり知られておりません。
ぜひ、医学部に所縁のある方は彼について調べてみてください。
では、今回はこれまで。