HISATAKA SHIMADZU ism

歴史、事業、その他

新年のご挨拶

皆様、明けましておめでとうございます。

今年は天皇陛下即位の礼など、イベントが多く神社界隈も慌ただしい限りです。

 

昨日、毎年恒例の年末年始恒例の奉職が終了し、

 

先ほど上京しました。

 

東京も思ったほど寒くなく助かったと思っております。

 

さて、冒頭にも触れました奉職先の「精矛神社」ですが、

 

今年で築100年を迎え、御祭神の「島津義弘公」が亡くなって400年経ちます。

 

 

精矛神社は、松方正義東郷平八郎などが動いて作り上げた神社です。

 

当時は国策に近い状況だったことが想定されます。

 

しかし、今はGHQ神道指令により神社は国家から切り離されていますので、

 

民間で行う必要があります。

 

精矛神社は、氏子区域が鹿児島県全域になっています。

 

鹿児島県民全員の氏神様でもあります。

 

なかなか今まで認知されておりませんでしたが、

 

昨年の「西郷どん」ブームにより、認知度が上がったように思います。

 

若い方も、なかなか上の世代の方から説明されても心理的ブロックで

 

なかなか頭に入ってこない部分も多いのではないでしょうか。

 

昨日屋台村で飲んでいた所、

 

同年代の方々とお話ししていたら、精矛神社は知らなかったと話されていました。

 

そこで、神主の名刺をお渡しし、ご説明させていただいた所、

 

すんなり頭に入っていったようでした。

 

私からももっと発信せねばならないな、と強く感じた瞬間でした。

 

なので、今年は益々広報が必要ですので、

 

色んなところでお話をさせていただければと思っています。

 

ぜひ応援の程、よろしくお願いします。

 

 

AERAに掲載されています!〜末裔対談記事〜

ご無沙汰です。島津です。

今週発売されたAERAに、末裔対談記事が掲載されてます。

 

私も出させていただきました。

 

東京に来て西郷さん、川路さん、坂本さんと出会い、今回大久保さんとも初めてお会いする事が出来ました。

 

このメンバーが集まってまた記事が生まれるか、と言われれば難しいのが本音。

 

今回本当に良い機会、良い写真を残す事が出来ました。

 

ぜひこちらをご覧頂ければと思います。

 

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鹿児島:現在の「西郷どん」効果をみる

あけまして、おめでとうございます。

 

昨日ようやく年始の祈願が終わり、

 

明日東京に戻るべく本日は鹿児島市内を徘徊しております。

 

馴染みの店をいくつか回ってみましたが、

 

まだ西郷どん効果はみられず、

 

訪れる客数は昨年と同じか少ないくらいだ、とのことでした。

 

そんなすぐには来ませんね。

 

鹿児島で久しぶりにテレビをみていましたが、

 

大雑把に鹿児島へ観光客を呼ぶコンテンツを用意できているものの、

 

具体的な呼び込みプランがまだはっきりしていない印象を受けました。

(まだ定まっていないのか、情報を出していないのか)

 

篤姫の時は、他の大河に比べあまり集客出来ていなかった鹿児島ですが、

 

今回はしっかり呼び込んで欲しいですね。

 

せっかく県内に島津家も西郷家もいるのですから、

 

どんどんセミナーやトークライブで集客すれば良いのに、と思います。

 

「その土地に行けば、末裔の話が聞ける」

 

これも観光の醍醐味ですね。

 

そんなこんなで、

今年は私の周りもなかなかてんやわんやですが、

頑張ってまいります。

 

よろしくお願いします。

 

島津

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神社コラム~その2~

 こんばんは。島津です。

 

 今回は神社コラム第2弾です。

 本日のテーマは、専業神職と兼業神職についてです。

 

 ちなみに第1弾はこちら。

shimadzu.hatenablog.com

 

神職には2種類の働き方があります。

1つは朝から晩まで神社で奉職する専業神職

 

もう1つは別の仕事をしながら神事の際奉職する兼業神職

 

なぜこのような就業形態...否、奉職形態が出来てしまったのか。

 

その話はずばり第二次世界大戦まで遡ります。

 

皆さんも日本史をある程度ご存知と考え、第二次世界大戦についての説明は割愛します。

 

ここで大事なキーワードは神道指令です。

 

神道指令とはなんなのか。

それは...

神社神道と政府との徹底分離を推し進める指令でした。

 

海外でも政教分離の原則はありますが、宗教団体と政府との分離が一般的です。

しかしこの神道指令はこれとは違い、宗教的な要素をすべて国家と分離するという見方によっては過激なものになりました。

 

分かりやすく言うと今まで公務員だったのにいきなり民営化され、どうやって神職生活すればいいの?となっちゃったわけです。

 

 とはいえ、すぐ神社が消えまくる時代は迎えずに済みました。

 お寺に檀家制度があるように神社の世界には氏子制度があったからです。

  神道指令を出されたとはいえ、氏子さんがスポンサーとして機能していたのでお祭りの費用などはなんとか賄えていました。

 

 しかし時代は21世紀。地方では少子高齢化が進みました。

 今まで世襲的に神社のお祭りなど参加する傾向にあった氏子は、下の世代が地元を離れ神主は世襲されても氏子は世襲されない世の中になりました。

 

 人の来ない神社は生活苦を迎え、働かないと生活できない始末。

 

 一方で別の切り口から専業神主で奉職できる神社もあります。

 霧島神宮明治神宮などがそれにあたります。

 

 神社とはどんな場所なのでしょう。

 

 まず、感謝する場所です。

 今年も健やかに過ごせていることに感謝、今日も無事朝を迎えられた感謝、五穀豊穣に感謝、無事に出産出来て感謝、無事に大人になれて感謝など、感謝するところです。

 

 次に、祈る場所です。

 来年も実りの秋をお願いします、受験の合格をお願いします、身内の健康をお願いします、などですね。

 

 最後はすべての神社に該当するわけではありませんが、観光地の側面があります。

 遡ること江戸後期から、新たに観光の面を持った「お伊勢参り」が流行りだします。

 そこから観光の側面も連なり、観光地としての神社の認識も増えてきました。

 


アイラブ霧島①パワースポット霧島神宮

 

専業神主と兼業神主を分ける大きな違いはこの最後の観光地としての面が大きいです。

つまり、人を呼べる神社は専業神主として働けます。

 

これからの神職はPR・広報が不可欠になります。

そこを補えるかもしれないサービスが最近登場しているのでご紹介します。

 

hotokami.jp

 

精矛神社も情報更新していただいてます。

神主の皆さんも、参拝される皆さんもぜひご活用ください。

 

あんまりまとまりませんでしたが、本日はこれにて。

神社コラム~その1~

神主の資格を取得して早5年経ちました。
 神社の事を聞かれる機会が増えたので、少しコラムを掲載します。
 
神職といえば、タレントの狩野英孝さんが有名でしょうか。彼が資格を取ったときはそれとなく話題になってましたよね。神職に資格が必要とこの時知った方も多かったのではないでしょうか。
 
 実は、神職の資格は上から「浄階」「明階」「正階」「権正階」「直階」の4資格あります。「浄明正直」(浄く明く正しく直く)という神道の徳目に由来します。
 
 この他に、神職には職階と身分が分かれています。
 職階とは、通常の企業で言う「社長」「部長」などに当たります。
 イメージとしては、「宮司=社長」「権宮司=副社長」「禰宜=部長」「権禰宜=一般社員(マネージャー~一般社員)」「主典=一般社員(旧官国弊社に残っている場合がある)」「出仕=新卒~インターン」と置くと分かりやすいでしょうか。

 身分は一般企業の給与制度にさだめられる「等級」に近いでしょうか。
・特級   白紋入り白袴
・一級   白紋入り紫袴
・二級上  紫紋入り紫袴
・二級   紫袴(紋無し)
・三級   浅葱色(紋無し)
・四級   白色
のように分かれています。

 神社に行くときチェックしてみてください。(紋無白袴は作業着として使っている方や社外の神事で着る場合もありましたので、意外と白袴は当てにならない場合があります。)

 神職の世界は、そもそも戦前まで公務員だった背景から結構色々定められていることも多いです。
 そんな中、新しい動きをする神社がいくつかあるのでご紹介いたします。

 ひとつ目は岡山県岡山市中区祇園に鎮座する備前国総社宮。ここの見どころは、ここ最近建て替えられたお社です。
 平安時代をテーマに、当時の建築様式及び当時の神事の祭式を復活させる動きをされています。
 
 次は、東京都渋谷区に鎮座する金王八幡宮。ここも私が神職階位を取得する際の動機が、宮司さんの娘さんだった背景からお世話になりだした神社になります。
 源頼朝義経と共に鎌倉幕府を立ち上げ、最後は義経軍に捉えられ壮絶な死を遂げた渋谷金王丸の武勇が轟き、金王八幡宮となったそうです。
 
 渋谷一族は薩摩にも下向していましたが、最終的に島津と戦争し降伏、そして入来を安堵され明治まで守っていました。実は母がこの渋谷一族の末裔でして、金王八幡宮とは出会うべく出会ったと思っています。
 
 1092年に建立した歴史ある社。ただ、大祭時の出し物などは今風のものが多いです。

 「神社なのにこんな出し物するんだ!」が体感できると思いますので、ぜひ足を運んでみてください。

神社と家を継ぐ運命を背負いながら ミュージシャンへの道を歩む(ガクセンから転載)

 ご覧いただきありがとうございます。

 今回はガクセンからの転載になります。

 ぜひご覧ください。

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薩摩武士の嗜みを嗜む

郷中教育は、薩摩に古くから伝わる独自の教育システムです。その教えには、野太刀自顕流(のだちじげんりゅう)と呼ばれる古武道、土地伝来の幻の縦笛・天吹(てんぷく)や薩摩琵琶などの楽器の稽古も含まれています。鹿児島で生まれた私は、この教育を幼い頃から受けて来、気が付くとそれが私の強固なバックボーンになっていました。絶やしたくない誇り高き文化だから自分でも演奏し、事あるごとにその歴史などを伝える活動もしています。
「いにしへの道を聞きても唱へても 我が行ひにせずば かひなし」。地元が産んだ名武将・島津忠良公が作った日新公いろは歌の最初のこの句は、私の座右の銘。「実行することの大切さ」を説いています。私のあらゆる行動は、その句によって背中を押された結果です。

自分の礎になった野球部創部という大仕事

中学時代、野球部を創部したのも、その座右の銘に準じた結果に違いありません。私が野球を始めたのは、中学2年生の秋でした。この中途半端な時期には、訳があります。学校に野球部がなかったからです。
WBCで優勝を決めた松坂大輔を観た小学生の私は、野球に憧れるようになりました。中学生になったら始めたいと考えていましたが、入学してみると部自体がありませんでした。私と同じように、野球をやりたい生徒が周囲に何人かいたので、「ならば一緒に作ろう」と呼びかけて創部。流れで初代部長になった私は、皆を引っ張り、中学体育連盟が主催する夏の大会出場を果たします。中学最初で最後の大会は初戦敗退でしたが、部員のほとんどが初心者だったにもかかわらず、大会に出られた事が私は満足でした。
高校にも野球部がなかったので、皆で嘆願書を出して創部に漕ぎ着けます。ところが、最初の公式戦の後、野球部のあり方に疑問を呈した部員が続出。12人いたメンバーは3人まで減り、結局1年生の後半から3年生になるまで、少ない人数で過ごす事になりました。ただ、高校最後の試合だけは、新たに入部した1年生とバレー部から助っ人を呼び、なんとか出場。夢だった甲子園には遠く及びませんでしたが、やり切った満足感を私は噛み締めました。
中学でも高校でも、部の成長と共にメンバーの技術が上がっていったのは確かでした。私はそれがなにより嬉しかった。加えて、私自身も、消極的な自分から積極的に動く人間へと成長できた。私の行動が今エネルギッシュなのは、中学時代の野球部創部の経験が糧になっているのは明白です。結果を考えず、とにかくまずスタートを切って頑張れる力を私は身につけています。それは、鹿児島の郷中教育の教えにも通じる生き方です。

ギターをとことん極めたい気持ち

進学先に選んだのは、東京薬科大学生命科学部でした。私は、研究室での実験に打ち込みます。ところがしばらくすると、「自分のやりたいことは本当にこれなのか」という疑問が湧いてしまいます。私は悩みました。
その頃たまたま、新宿の楽器屋で安い中古ギターに目が止まります。ジャズやブルースの大御所も使っていたセミアコに私は一目惚れしました。この単なる一目惚れが、私の人生を大きく変えていくことになるのです。
ギターを手にした私は翌日、大学のジャズ研に入部。以降、ライブに出場したりセッションに参加したりと、私はジャズギターにどっぷりはまっていきます。その頃には、勉強に身が入らなくなっていました。もっとギターを極めたい。その想いと学業の間で私は揺れました。悩んだ末、私は実験が忙しい大学を去る決意を固めます。3年生から4年生に上がる段階で編入試験を受け、帝京大学に2年次編入。ジャズを、そしてギターを突き詰める道を私は選んだのです。以来私のギターに対する熱が冷めることはまったくありません。
ジャズは自由な音楽です。そんな音楽に惹かれたのは、もしかすると、あらゆるものに縛られている自分と、真逆にある世界だからかもしれません。


「三足の草鞋を履く」という生き方

まだ、仕事に関して勉強不足が否めない私ですが、コンサルタントという職業には、大いに興味を持っています。さまざまな業種の仕事や内情を含めたノウハウを手に入れるのに適しているし、自分を追い込んで仕事ができる印象があるからです。私が思い描く「神社を継ぐ前に、あらゆる世界を見て学ぶ」という願いも叶えられそうです。職種は、企画立案など、新しいものを作るセクションを希望しています。野球部がそうであったように、0から1を生み出すことに、私は無類の喜びを感じるからです。
現在、神社の世界は転換期を迎えています。新たな神職の働き方を模索しなければ、神様の宿る神社も消え、同時にその地域の日本人としての文化も消えてしまいます。私には、先祖を祀る神社を守る使命があります。その為に、20年ぐらいは社会に揉まれたいと思っています。自分が神職を継ぐ上で必要だと思うスキルをしっかりと仕事をしながら体得し、楽器の練習も続け、琵琶、天吹も演奏する神主かつビジネスマンかつミュージシャンになれたなら、私なりの神職として生きる理想の姿に近づいたと言えるでしょう。
神職は、世の為人の為に奉仕し、国の隆昌と世界の共存共生を祈る事が仕事です。他方、薩摩琵琶弾奏者は数百年も前から琵琶歌で平和を訴えています。ジャズは、他国の文化との交流のツールです。
私の最終目的地は、祈り、訴え、交流すること。そこに至った時、伝統を守りながら新しい形の神社も作れるに違いありません。

 

 

薩摩と被災地が繋がるキッカケ(ハフポストから転載)

 ご覧いただき、ありがとうございます。

 私が以前、ハフポストに投稿した記事を改めて転載いたします。

 ぜひご一読ください。 

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 私は生まれながらに加治木島津家と精矛神社を継ぐ宿命を負っている。加治木島津家は関ヶ原合戦において徳川家康の本陣を敵中突破した島津義弘公から始まった分家筆頭である。その関係から、薩摩に伝わる郷中教育の一貫である野太刀自顕流、天吹や薩摩琵琶、そして雅楽で使われる笛である龍笛を学んでいる。現在は帝京大学法学部で法律を学んでいる傍、精矛神社権禰宜として年末年始に奉仕している。

今回、縁あって福島県原町高校にて音楽の授業をさせていただいた。授業の日程は4月30日から5月2日までの3日間。主に高校1年生と2年生音楽選択者のクラスで行うことになった。

滞在先は相馬市。震災の復興が進んでいるところだ。散策しても震災の痕が見当たらないほど綺麗だった。道行く高校生や年配の方も元気な挨拶をしてくれて、暗い雰囲気はなかった。荷物を置き、宿泊先の車を借りて南相馬市まで運転してみたが、瓦礫等は見当たらなかった。しかし、浸水区域等の看板が表示されていることから、震災の爪痕は残っていることはわかった。

運転すること約30分、翌日から授業をする予定の原町高校に着いた。高校の隣の土地は仮設住宅で埋められているのを見て驚いた。普通のマンションやアパートとは違い、とても簡素なプレハブのような家に住まわされている現実を目の当たりにしたからだ。自分がいかに恵まれた場所で暮らしているのかが良く分かる。

その後、南相馬市立総合病院で研修医をされている藤岡将医師に避難区域の小高区浪江町を車で案内して頂いた。藤岡医師は東大医学部を卒業し、昨年から南相馬で研修している。私は東大の研究室で「修行」しており、そこの先輩にあたる。

小高区浪江町で目の当たりにしたのは残されたままの瓦礫や1階の流された家、割れた窓、ひっくり返ってボコボコになっている車だ。震災初期の報道と、全く同じ状態だった。「未だにこんなに残っているのか」とショックを受けた。ここでは復興を感じない。このあたりの空間線量は相馬市と変わらない。何が両者をわけてしまったのか。少なくとも「被曝」ではない。

 翌日は、原町高校での特別授業として、ジャズ、天吹、龍笛についての話をした。自分が一番伝えたかったのは楽器についてよりも、天吹の話を通した「薩摩の生き方」だった。 天吹は尺八の小さくなったような形をしていて、鹿児島に伝わるコサン竹で作られた幻の笛であり、どこにも売っていない。伝承されているのは7曲だ」天吹には、あるエピソードが伝わっている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて敵中突破を果たした島津義弘公の家来、北原掃部助という人が愛用の天吹を陣中に忘れて取りに帰った。徳川方に捕まってしまうが、「死ぬ前にもう一度天吹を吹かせて欲しい」と懇願し、吹奏したところ、徳川方は感動し解放されて薩摩に戻ることが出来たそうだ。

私は、この話を「芸は身を助く」の実例と理解している。戦場では、何が自分の身を助けるか分からない。まさか天吹が役に立つとは想像する人もいないだろう。

高校は勉強するところである。しかし、勉強という言葉が指すのは学問だけでは無い。自己啓発、教養、コミュニケーション、マナー、プレゼンや興味を持ったことを突き詰める等、得るものは沢山ある。ここまでは、よく言われる話だ。ただ、具体的に言われないと、何をどうしていいかわからない。薩摩には、天吹のような先人達の話が伝わっており、それが「教材」として使われている。島津家に生まれた私は、地域社会の中で、このような伝統を伝えるのが使命だと考えている。

では、どうすれば「学校の勉強」以外の素養を身につけることができるだろうか。それは行動に尽きる。思い立ったら即行動することである。なぜならその時が一番集中して物事に打ち込めるからだ。

私が把握している行動に関する一番古い教えは、「いにしへの道を聞きても唱へても 我が行ひにせずばかひなし」という歌である。戦国時代から鹿児島に伝わり、我が家の家訓でもある島津日新公いろは歌の一つである。「どんなに古くから存在する良い教えを受けていても、自分の行動に移さなければ意味が無い」という内容だ。

長州の吉田松陰も「賢者は議論より行動を重んじる」と遺している。明治維新をリードした薩長の何れにも、同じような教訓が伝わっているのは興味深い。おそらく、「何かをなす」ために必要不可欠な覚悟なのだろう。ただ、わざわざ教訓にするということは、人間は基本的に臆病なため、ほっておけば尻込みしてしまうためかもしれない。太古、野獣から何とか身を守ってきた我々の先祖のことを考えれば、人間は臆病であるのが普通なのかもしれない。

 薩摩には、この手の話は数多く伝わり、我々の世代にも影響している。例えば「泣こかい!飛ぼかい!泣こよかひっ飛べ!」という言葉がある。ざっくり言うと引くぐらいなら突っ込めということである。分かりやすい例は敵中突破だ。駄目元でも突っ込んでみれば活路を見出せるのだ。やって見なければわからない。なのでどんな人も前向きに突っ込んでみると良いのである。

原町高校の授業は、鹿児島の教えを用いて行動力や積極性について説いた。この授業は、これからの鹿児島と南相馬市、福島と未来において繫がるキッカケになったはずだ。それは即ち、今回の特別授業で原町高校生が天吹や鹿児島に興味を持って、将来鹿児島に遊びに行きたい、実際に天吹を作ってみたいと思い立つ生徒が現れ、鹿児島を訪問すればそこで同年代と繋がる。そうすると福島へ遊びに行く事になる。そこで、鹿児島の人は震災から学んだ事を直に教えてもらえるのだ。個人個人のネットワークが政府よりも信頼出来る情報をもたらす事は先の震災に置いて明らかになっている。つまり今回の授業は、これからを生きる原町高校と鹿児島との将来的に助け合えるネットワークを築くキッカケになったはずである。

 今回このような機会を頂けて本当に良かった。被災地の高校生は楽しそうに過ごしていて、復興も場所の差はあるが、進んでいる事が分かった。これからもこのような話を今度は別のところでも、ぜひさせて頂きたい。そうして1人でも多く鹿児島と被災地が繋がるようにしたい。